九州、其の二 (南九州・筑豊編)

九州、其の二


(南九州・筑豊編)


旅行場所:南九州・筑豊

期間:1983年 1月 4日~ 1月10日

行程:1月4日の朝、新神戸のホームに上がると駅名の表示がある所で、近くにいた乗客の人に顔と駅名が一緒に写るように、ポケットカメラのシャッターを押して貰った。東海道・山陽新幹線の証明写真である。今回は九州へ行くので、博多の写真と新神戸は途中駅としての扱いにして写真を撮っておいて、今後東へ行く時に新神戸と東京の写真を撮り、合わせて東京-博多の乗車証明になる訳だ。

8時40分発の博多行きのひかりに乗って、全線乗り潰しでは2度目の九州旅行が始まった。そろそろ12時半になろうかという頃に新幹線ひかりは博多駅のホームに入った。博多駅の新幹線ホームに立つのは中学校の修学旅行以来である。まず香椎線に向かう為、在来の鹿児島本線の電車に乗り換える。1時前に博多を出て10分少々で香椎に着いた。香椎線はこの香椎駅で鹿児島本線を跨いで十字交差した路線で、北の西戸崎と南の宇美を結び、宇美では勝田線と連絡している。西戸崎行きの発車までは40分程あり、写真と昼食を済ませておいた。2時前に来たディーゼル列車は北西へ向かい、20数分で到着した西戸崎駅は志賀島の手前に在って、駅の隣には海の中道公園の在る景色のいい場所に位置している。折り返し時間が5分の為、急いで写真を撮って貰い元来た路線を香椎迄戻った。50分程待って3時半過ぎに香椎を出発、30分足らずで宇美に着いた。隣には勝田線の駅舎が在る。

1時間近く待ってようやく筑前勝田行きの列車が来た。5時丁度に宇美を出て6分で筑前勝田に着くと写真を撮り列車の出発を待つ。15分後に発車した列車は旧型の客車をディーゼル機関車が牽引して、勝田線(廃線)を北上し、30分程で鹿児島本線との接続駅である吉塚に着いた。そして一旦博多に戻り、快速電車で門司へ向かった。門司に着いたのはもう8時前であった。更に門司港へ移動し、写真を撮って駅前の食堂で丼物で腹ごしらえをした。この日の夜は夜行の急行かいもんで一夜を過ごす。10時過ぎの出発で、座席の確保に並んで列車が来るのを待つ。発車時刻が近くなってホームに青い車体に白いラインの入った客車が入線して来た。乗り込んで程無く座席を確保できた。普通の向かい合わせの座席なので寝にくいが我慢である。
予定通り門司港を出て、列車は鹿児島本線を一路西鹿児島(現鹿児島中央)へと進んでいった。(現在新八代-鹿児島中央間は肥薩おれんじ鉄道)

1月5日の早朝6時過ぎに急行かいもんは西鹿児島に着いた。あいにく天気は雨模様の様相である。鹿児島本線の終点は1駅隣の鹿児島駅であるが、実際の列車の運行体系は西鹿児島が中心となっている為、西回りの鹿児島本線の列車はここ止まりである。早朝というのもあって鹿児島方面行きの列車は1時間以上待たねばならない。駅前に出てみると鹿児島市交通局の路面電車が見える。日本で最南端の路面電車である。いまだに健在なのには驚いた。そこそこ時間が経ちホームで待っていると、電車が来たので乗り込んだ。これまで急行型として活躍してきたこの電車も、急行が減りつつあり、ローカル線の普通電車に使われ始めている。僅か5分で鹿児島駅に着いたがまだ7時半前だった。今度西鹿児島へ戻る列車迄また50分近くある。外は雨が降っていて駅に居るしかない。8時を廻ってやっと電車が来た。編成の中にグリーン車を発見、確認すると普通車扱いと言うので、グリーン車に乗った。束の間の5分間だけど快適な方がいい。西鹿児島からの指宿枕崎線の発車は10時前なので、まだ1時間半は十分にある。

どうにか時間を潰して、10時前には列車の来るホームで待っていると、指宿行きのディーゼル列車が入って来た。定刻通りに発車した列車は南下して、薩摩半島の東沿岸をグルリと廻るルートで西鹿児島と枕崎の間を結んでいる。本来なら冬とはいえ南国の暖かそうな景色を見ながら楽しみたいのだが、この日はあいにくの雨で外の景色もろくに見えない。11時を廻った頃に指宿に到着。ここで枕崎行きに乗り換えである。丁度1時間の待ち合わせになった。12時を廻って接続の列車に乗り換えて、終点の枕崎を目指す。しかし外は相変わらず、雨が降り止まずに指宿を出て南側の車窓から見える筈の長崎鼻や開聞岳もろくに見えなかった。1時間少々で終着駅の枕崎に着いたのは1時半だった。この枕崎では鹿児島交通(廃線)と接続している。路線は非電化で薩摩半島の西側を走り、枕崎と鹿児島本線の伊集院を結んでいる。こちらもローカル線で赤字を抱えており、結構運営は大変そうである。

折角ここ迄来ながらも、僅か5分での折り返しである。列車本数が少ないのでやむ終えないのだが、もうちょっと居られたらとも思う。帰りの列車は西鹿児島行きの為、乗り換えの必要は無い。約2時間40分の間、スッキリしない空模様の中、列車は薩摩半島の東側を北上して行く。西鹿児島(現鹿児島中央)には4時過ぎに戻った。後は宿泊先の水俣へ移動するだけだ。すぐの乗換えで、L特急有明に乗って鹿児島本線を北上する車内では満席で立ったままだった。約2時間で水俣には6時過ぎに着いて、駅前の食堂で夕食に丼飯を食べて旅館に向かった。前夜は車中泊だったのでやっと布団の上で寝られるからホッとした。

1月6日は5時台に起きて水俣駅に向かった。6時半過ぎに出発の山野線(廃線)の列車に乗る為である。とにかくローカル線は列車の本数が少ないので、早起きしないと乗り遅れたら、2~3時間待つのもザラである。水俣を出て1時間程で薩摩大口に着いた。山野線は栗野迄の路線で山間を走っている。薩摩大口で1時間半程待って栗野行きのディーゼル列車が来た。揺られて30分位で栗野に到着。この駅では肥薩線と接続している。栗野に1時間位居て薩摩大口に戻ったら、11時45分発の宮之城線(廃線)の列車に乗り換えて川内(せんだい)迄、約2時間の道程を西南の方角へ進む。

川内では50分程の待ち時間でL特急有明に乗り換えて、鹿児島本線(この区間は現肥薩おれんじ鉄道)を北上し、八代へ向かった。4時半より前に八代に着いてここからは肥薩線に乗換えだ。40分程待って急行くまがわに乗り、人吉迄1時間少々球磨川沿いの路線を行く。この日の宿泊地人吉に着いたが、その前にもう一仕事湯前線(現くまがわ鉄道)を踏破へ。片道約40分の路線を往復する為、夕方の6時半に湯前に向けて出発。もう外は暗く景色を楽しむ状況では無い。湯前では8分程で折り返し、7時半に出た列車は8時過ぎに人吉へ戻った。それから駅を出て旅館に向かった。

1月7日は肥薩線の続きである。人吉を7時40分発の列車でまず1時間程で吉松に移動。約30分待って乗り換え、1時間少々で隼人に着いた。10時40分過ぎに隼人を出発した列車は一旦吉松に戻り、そのまま吉都線に入って都城へと進む。約2時間50分山の中をディーゼルカーに揺られて、1時半頃に都城に着いてようやく昼食となった。1時間程の待ち合わせで急行えびのに乗って約50分で宮崎に到着。更に30分の接続待ちで4時前に出発、日豊本線を北上し佐土原迄15分程で着くと、妻線(廃線)に乗り換えである。30分程待って杉安行きに乗り5時過ぎに杉安に着いて、折り返し迄約20分待つ。どの駅も待ち時間があるのは仕方無いが、写真を撮るのと1度改札を出入する余裕を見れば、15分位がいいかなと思う。杉安を5時半過ぎに出た列車はそのまま宮崎へ直通し、6時半を廻って宮崎駅に着いた。その後南宮崎に移動して日南線の列車を待つ。

暫くすると駅の待合所で大きな声がした。見ると酔っ払いの年配の男性が周りの乗客達に絡み始めた。駅員が2~3度注意したものの、一向に収まる気配が無い。列車が来る迄40分近くの間、危ない酔っ払いと同じフロアに居るのは苦痛であった。駅員も遠巻きに見ているだけで、警察でも呼ぶとかすればいい様なものだが動こうとしない。乗客の安全を守るのが仕事ではないのかと思ったが、そうこうするうちに時間が経ち、日南線の列車に乗り換えた時にはホッとした。夜8時過ぎに南宮崎を出発し、1時間少々でこの日の宿泊予定の油津に着き、9時半近くにホテルにチェックインした。

1月8日の朝、ホテルの部屋で目が覚めて、思わず目を疑った。この日の予定では早朝に起きて日南線の残りと、大隈線と志布志線(共に廃線)を乗った後、空き時間を鹿児島市内観光に当てて、夜行列車の出発迄繋ぐ段取りだった。ところが起きた時間はとっくに予定の列車が出た後で、旅行を1人で行く様になってから初めての寝坊である。とにかく何とかせねばと大急ぎで身支度を済ませて、ホテルをチェックアウトして油津駅へ急いだ。

油津駅で列車を待つ間、時刻表と睨めっこで大幅な軌道修正だ。もう鹿児島市内観光に行く時間は無い。列車の本数が少ない路線ばかりで、やりくりに苦労したが、どうにか夜行列車に途中から乗ってもいい様に変更が出来た。

遅い朝食代わりに菓子パンをホームの売店で買い、10時半過ぎにやっと油津を出て移動を開始、1時間少々で日南線・大隈線・志布志線の3線が分岐点となっている志布志駅に到着。3線分の写真を撮り、大隈線(廃線)で国分へ向かう。12時前に発車して、大隈半島を西へ進み国分に着いたのは3時近かった。志布志では食べる余裕が無かった為、ようやく駅前の食堂に駆け込み、肉うどんを注文して遅い昼食を済ませた。何しろ予算もそんなに余裕は無いから食事も節約である。20分の待ち時間で西鹿児島行きの電車が来て、普通車扱いのグリーン車に乗り30分程で4時前に鹿児島駅で下車、日豊本線用の写真を撮って後続の快速やたけで西鹿児島へ移動。

夕方の5時を廻って志布志線経由の快速大隈に乗り、約2時間半で志布志へ戻って、志布志線を8時過ぎの列車で戻り、約1時間後に西都城に着いて列車を待つ。約30分待っていると高架のホームに列車が入って来た。編成は電気機関車に牽引された青い車体に白い線の入った客車である。途中からの乗車だが、とりあえず座席に座る事が出来てホッとした。ここからは当初の予定通りの行程に戻ったのである。夜11時に宮崎駅に着いて、列車自体はそのままで宮崎からは列車の扱いが、普通列車から急行日南に変わり急行券が必要になる。この旅行では周遊券を使っているので自由席ならそのまま乗れる。10分近く停車した後、夜行の急行日南となった列車は北上して、一路北九州へと進んで行った。

1月9日の早朝6時半過ぎに、夜行の急行日南は小倉に着いた。これで日豊本線の踏破となった。1時間程の間に朝食を済ませて、7時半過ぎに出発した列車で日豊本線を少し戻って行橋に8時前に着いた。ここから田川線(現平成筑豊鉄道)に乗り換えて、田川伊田には9時過ぎに到着。この辺りは炭鉱の名残のある筑豊の東部になる。田川伊田で20分程待った後、1駅隣の田川後藤寺に移動。10時前に出て糸田線(現平成筑豊鉄道)を10数分の道程で金田に着いた。ここでは1時間半待たされて11時半過ぎにやっと列車に乗り、一旦田川伊田に戻った。1時間少々の間に昼食を済ませて、1時前に田川伊田を出発して、伊田線(現平成筑豊鉄道)で直方に向かった。30分足らずで直方に到着。10数分待って宮田線(廃線)直通の列車に乗り2時前に筑前宮田に着いた。この辺りも石炭産業が寂れてかつての名残を見るのみであった。10分の待ち時間で宮田線を折り返し10分足らずで分岐点の勝野へ着き、筑豊本線に乗り換えて移動し桂川には3時に着いた。1時間半程待って篠栗線の列車に乗って、40分の道程を北上して吉塚には5時過ぎに到着。これで今回の予定区間は、途中で寝坊のアクシデントがあったものの、乗り潰す事が出来た訳である。すぐに鹿児島本線の電車に乗り換えて1駅隣の博多に移動、夕方6時過ぎ出発のこだまに乗り込み、8時に広島へ着いて親戚の家へ向かった。

1月10日この日は親戚の家でゆっくり過ごし、路面電車で広島市内の繁華街をブラブラして、夕方の新幹線で広島から新神戸へ戻った。まだまだ九州は乗っていない路線があるので、またいつかは行かねばならない。さていつにするか。


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